春日山窯(青木木米)金府印青磁獅子盃
2019年03月30日
東京では桜が満開の頃でしょうか。
暑さ寒さも彼岸までと言いますが、金沢では一時期暖かくなったもののまだ冷え込む日も多くなかなか春物のコートに袖を通せずにいます。
金沢で桜の名所といえば数多くありますが、春日山(卯辰山)にも公園がありヤエザクラ、シダレザクラ、ソメイヨシノなど約250本もの桜が楽しめるので、少し足を伸ばしてハイキングがてらお花見にお出かけするのも良いですね。
さて、本日は卯辰山にちなんで卯辰山(春日山)にて開窯していた春日山窯の盃をご紹介いたします。
春日山窯(青木木米)金府印青磁獅子盃 (江戸後期)
口径 6.8cm
低径 3.5cm
高さ 3.5cm
深いオリーブ色の艶やかな釉薬が落ち着いた雰囲気を纏う盃です。
高台はなく平底で「金府」の印があり、胎土は鼠色で小砂が混じっています。
側面に陽刻された獅子は異国風に見え、釉薬の色味などもあいまって宋胡録青磁のような雰囲気がでているように感じます。
じっくり眺めていると獅子がカメレオンのように見えてきたり、踊っているかのようにも見え、最初の渋い印象からして一転愛らしい盃に見えてきます。
春日山窯は文化4年〜文政初年頃(1807〜20頃)、当時名工と称された京都の青木木米(1767−1833)を招いて藩営で金沢の卯辰山の麓に開窯されました。
当時の加賀地方においては、大樋焼以外の焼物は安定して生産されておらず日用雑器なども肥前や京都から買わなければならなかったため、藩のお金が藩外に流出していました。その防止策として、加賀藩において国焼の生産が試みられました。
木米の作品は優れた作行となりましたが、この窯の経営は文化5年(1808)の金沢城大火による藩財政の緊縮から春日山窯は民営に切り替えられ、諸説ありますがそのことも関係して木米は在藩2年足らずで京都に引き上げてしまいました。
その後は本多貞吉などの陶工らが木米在藩中の作品を倣って製陶が続けられましたが、本多貞吉が若杉窯に移ってから急に衰え廃窯しました。
春日山窯の作品の特色として、呉須赤絵写が最も多く、交趾写・絵高麗写・青磁・染付などがあり、器種は日用品が大半を占めました。銘は「金城製」「春日山」「金城春日山」「金府造」「金城文化年製」などがあります。
古九谷窯廃絶後、加賀地方では製陶がほとんど行われず、窯業再興の先鞭をつけた一つが春日山窯であるといえます。
わずか2年ほどで帰京してしまいましたが、青木木米が金沢へ来なければ春日山窯ばかりではなく後の若杉窯も吉田屋窯も起こらなかったかもしれません。
盃ひとつで少し壮大になってしまいましたが九谷焼の歴史に想いを馳せながら、しっぽりと花見酒を味わってみてはいかがでしょうか。